第1章第1節 様相論理の動機と直観 【基本】¶
学習目標¶
この節では、普段当たり前に使っている「必ず」「かもしれない」という表現の背後にある論理を理解し、なぜそれを厳密に扱う必要があるのかを学びます。具体的には、日常言語の様相表現の意味の理解、必然性と可能性の基本的な区別、心理学における応用の可能性、そして様相論理の基本的な考え方の習得を目標とします。
本節の概要
身近な例から理解:日常的に使う「必ず」「絶対に」「かもしれない」という表現の背後にある論理的構造を発見する。
必然性と可能性の区別:「絶対に変わらないこと」と「変わりうること」の違いを明確にし、推論における重要性を理解する。
論理の限界の発見:従来の論理学では表現できない豊かな意味を発見し、新しい論理体系の必要性を理解する。
心理学への応用の展望:人間の思考、信念、知識を分析するための強力な道具としての可能性を概観する。
1.1.1 必然性と可能性の基本的理解¶
皆さんは日常生活で、次のような表現を自然に使い分けていることに気づいているでしょうか。私たちは無意識のうちに、必然性を表す表現と可能性を表す表現を使い分けています。
「明日は必ず授業に出る」という約束、「\(2 + 2\) は絶対に \(4\) になる」という数学的事実、「雨が降れば道路は必ず濡れる」という因果法則は、いずれも話し手がその内容を確実で変わることのないものとして捉えていることを示しています。一方で、「明日は雨が降るかもしれない」という天候の予測、「彼は遅刻する可能性がある」という行動の推測、「この薬は効く可能性がある」という治療効果への期待は、不確実性を含んだ状況への対処を表しています。
これらの表現の背後には、単純な「真か偽か」を超えた、より豊かな意味構造があります。同じ「真」でも、その確実さや変わりやすさには本質的な違いがあるのです。
真理の強さの違い¶
この違いを明確にするために、真理を二つのグループに分けて考えてみましょう:
真理の強さの比較
絶対に変わらない真理:
- 「\(2 + 2 = 4\)」
- 「独身男性は結婚していない」
- 「三角形の内角の和は\(180\)度」
今は真だが変わりうる真理:
- 「今日の気温は\(25\)度だ」
- 「太郎は学生だ」
- 「この部屋に\(10\)人いる」
最初のグループは、どんな状況や世界でも変わることのない必然的な真理です。\(2 + 2\) の計算結果は、どの文化でも時代でも変わりません。独身男性が結婚していないことも、「独身」という概念の定義そのものから導かれる変わらない真理です。
2番目のグループは、現在は真でも将来変わる可能性がある偶然的な真理です。気温は時間とともに変化し、学生という地位は卒業により変わり、部屋にいる人数も移動により変動します。これらは現在の特定の状況での真理であり、条件が変われば偽になりうるのです。
科学的知識における重要性¶
この「必然性」と「可能性」の区別は、科学的な知識においても極めて重要な役割を果たします。科学は、個々の観察事実から一般的な法則を発見することを目指しますが、その過程で必然性と偶然性の区別が決定的に重要になります。
科学における必然性の例
個別の観察事実(偶然的真理):
- 「この石は落ちた」
- 「昨日の実験で化学反応が起こった」
- 「この患者は薬で回復した」
科学法則(法則的必然性):
- 「重力により、すべての物体は地球に向かって落下する」
- 「特定の条件下では、この化学反応は必ず起こる」
- 「この薬は、特定の症状に対して効果を示す」
科学的知識の価値は、その予測力と説明力にあります。まず確実な予測について考えると、法則的必然性に基づく予測は高い信頼性を持ちます。たとえば、ニュートンの万有引力の法則から天体の軌道を予測する場合、その予測は非常に正確で信頼できます。
一方で仮説的予測も科学において重要な役割を果たします。これは「もしこの理論が正しければ、この現象が起こるはずだ」という条件付きの予測であり、理論の検証に使われます。アインシュタインの相対性理論から予測された光の屈曲は、後の観測によって確認され、理論の正しさを支持する証拠となりました。
説明の強さという観点では、なぜその現象が「必然的に」起こったのかを説明できれば、単なる経験的事実の記述を超えて、より深い理解が得られます。法則的説明は、現象の背後にある普遍的なメカニズムを明らかにし、類似の状況での予測を可能にします。
科学理論の発展過程でも、必然性の概念は重要です。科学的発見は通常、最初の仮説段階では「この説明が正しい可能性がある」という不確実な推測から始まります。次の検証段階では、絶えず実験や観測を繰り返して「実験結果と一致する」ことを確認し、理論の信頼性を高めていきます。そして最終的に確立段階に達すると、その理論は「法則として必然的に成り立つ」ものとして受け入れられ、科学的知識の一部となります。この過程は、不確実な可能性から確実な必然性への認識論的変化を表しているのです。
1.1.2 従来の論理学の限界と様相論理への道筋¶
これまでの論理学(命題論理)では、「真か偽か」の二つの値しか扱えませんでした。しかし前節で見たように、実際の思考や推論では、もっと豊かで微細な区別が必要です。
単純な「真偽」では表現できない重要な違い¶
従来の論理学の限界を明確に示す例を考えてみましょう:
論理学の限界を示す例
文A:「太郎は\(20\)歳だ」 文B:「\(2 + 2 = 4\)」
どちらも現在「真」だとします。しかし:
- 文Aは来年には「偽」になるかもしれません(\(21\)歳になるため)
- 文Bは永遠に「真」のままです
従来の論理学では、この本質的な違いを表現できません!
この問題は単に理論的な興味を超えて、実際の推論において深刻な影響を与えます。推論の確実性を考えてみると、必然的な真理から導かれる結論は絶対に確実ですが、偶然的な真理から導かれる結論は状況の変化により変わる可能性があります。
たとえば、「\(2 + 2 = 4\)」という必然的真理から「\(2 + 2 ≠ 5\)」を導く推論は確実ですが、「太郎は学生だ」という偶然的事実から「太郎は授業に出る」を導く推論は、太郎の地位が変われば成り立たなくなる可能性があります。
日常的推論における必然性と可能性の区別の重要性¶
私たちは日常的に、この違いを無意識のうちに考慮して判断しています。この区別がなぜ実践的に重要なのかを、具体的な場面で考えてみましょう。
計画を立てるときの例を見てみましょう。朝の通勤で「電車は必ず時刻表通りに来る」と確信している場合、あなたは到着時間を確実な前提として一日のスケジュールを組むことができます。しかし「電車は時刻表通りに来るかもしれない」程度の確信しかない場合は、遅延の可能性を考慮して会議の前には余裕を持った時間設定が必要になります。
他人の行動を予測するときも同様です。友人について「彼は約束を必ず守る」という強い確信を持っている場合と、「彼は約束を守るかもしれない」という弱い予測しか持てない場合では、全く異なる準備や期待が必要です。前者では安心して待つことができますが、後者では「もし来なかった場合」の代替案も準備しておく必要があります。
意思決定におけるリスク評価でも、この区別は決定的な違いを生みます。「この投資は必ず利益を生む」という判断と「この投資は利益を生む可能性がある」という判断では、投資額や期待値の計算が根本的に変わります。前者は確実性に基づく計算が可能ですが、後者は不確実性を考慮したリスク管理が不可欠です。
様相論理による解決への方向性¶
これらの問題を解決するために、論理学者たちは「真理の様相(mode)」、つまり命題が真である「仕方」を表現する新しい論理体系を開発しました。これが様相論理(Modal Logic)です。
様相論理では、命題の単なる真偽を超えて、その真理の必然性の度合いや可能性の範囲を表現できます。この新しい論理体系により、先ほどの「太郎は20歳だ」と「2 + 2 = 4」の違いを厳密に区別できるようになります。
この教科書では、第3節以降で様相論理の存在的様相(世界の客観的構造)と認識的様相(知識や信念)の両方を詳しく学習します。さらに第4章以降では、これらの精密な区別を心理学研究に応用し、人間の認知・推論・意思決定の機構を深く理解できるようになります。
1.1.3 必然性と可能性の階層構造¶
必然性と可能性という概念は、実は単一のものではありません。それぞれに異なる根拠や強さを持つ、精巧な階層構造が存在しています。哲学では伝統的に、これらの階層を精密に区別してきました。これらの区別を理解することで、様相論理がどれほどきめ細かく現実を分析できるかを理解できます。
論理的必然性:最も基本的なレベル¶
論理的必然性は、必然性の階層において最も基本的で強固なレベルです。これは論理学の公理と推論規則のみに依存し、世界がどのようなものであるかに一切関係なく成り立つ必然性です。
定義1.1.1 —— 論理的必然性
論理法則のみから導出される最も基本的な必然性。世界の具体的内容に一切依存しない。
具体的な例を通じて理解してみましょう。「AならばA」(\(p \rightarrow p\))という恒真式は、任意の命題\(p\)がそれ自体を含意するという自明な論理法則を表しています。たとえば「雨が降っているなら、雨が降っている」という文は、内容的には何も新しい情報を与えませんが、論理的には絶対に真です。同様に「矛盾律」(\(\neg(p \land \neg p)\))は、命題\(p\)とその否定\(\neg p\)が同時に真になることは論理的に不可能であることを示しています。これらの例が示すように、論理的必然性は世界の具体的内容に一切依存せず、純粋に論理体系の構造のみから導かれます。
概念的必然性:定義に基づく必然性¶
概念的必然性は、私たちが使用する言葉や概念の定義から導かれる必然性です。これは論理的必然性よりも具体的で、特定の概念体系や言語に依存しています。
定義1.1.2 —— 概念的必然性
概念や用語の定義から分析的に導かれる必然性。言語や概念体系に依存する。
最も分かりやすい例は「独身男性は結婚していない」という文です。これは「独身」という言葉の定義そのものから導かれる真理であり、世界がどのような状態であっても、「独身」という概念を使う限り必然的に真です。幾何学的概念でも同様で、「正方形は四角形である」という命題は、「正方形」の定義に「四つの等しい辺を持つ四角形」が含まれているため、概念的に必然的です。概念的必然性は言語や概念体系に依存するため、異なる文化や学問分野では異なる概念的必然性を持つ可能性がありますが、与えられた概念体系の中では確実で明確な必然性を提供します。
形而上学的必然性:世界の本質的構造¶
形而上学的必然性は、現実世界の本質的構造や自然種の深い性質に関わる必然性です。これは科学的発見によって明らかになることが多く、概念の定義を超えた世界の根本的な在り方を表します。
定義1.1.3 —— 形而上学的必然性
現実世界の本質的構造や自然種の本性に関わる必然性。経験的研究により発見される。
最も有名な例は「水は \(\text{H}_2\text{O}\) である」という命題です。これは化学の発展によって発見された事実ですが、単なる経験的事実を超えた必然性を持ちます。なぜなら、もし \(\text{H}_2\text{O}\) でない液体があったとしても、それは厳密には「水」ではないからです。同様に「金は原子番号79の元素である」ことも形而上学的必然性を示し、生物学的分類においても、「人間は動物である」ことは形而上学的に必然的です。形而上学的必然性の興味深い点は、それが経験的研究を通じて発見されることですが、一度確立されれば、それは可能世界を通じて必然的に真となります。
認識的必然性:主観的で相対的な必然性¶
認識的必然性は、特定の認識主体の知識状態や情報に相対的な必然性です。これまでの3つの必然性が客観的性格を持つのに対し、認識的必然性は本質的に主観的で、知識状態に依存します。
定義1.1.4 —— 認識的必然性
特定の認識主体の知識状態において必然的とされる主観的必然性。新情報により変化しうる。
身近な例として「私の知る限り、すべてのカラスは黒い」という文を考えてみましょう。話し手にとっては、これまでの経験に基づいて「カラスは黒い」ことが必然的に見えますが、実際には白いカラスも存在するため、これは認識的必然性であって、形而上学的必然性ではありません。科学的文脈では、「現在の物理学では、光速は一定である」のような表現が認識的必然性を示します。認識的必然性の重要な特徴は、その相対性と可変性で、同じ命題について、異なる認識主体や異なる時点では、全く異なる認識的必然性を持つことがあります。
可能性の階層構造¶
必然性に対応して、可能性にも精密な階層構造が存在します。各レベルの必然性に対応する可能性の種類を理解することで、より包括的な様相的分析が可能になります。
定義1.1.5 —— 可能性の階層
論理的可能性:論理的矛盾を含まないこと 概念的可能性:既存の概念体系と矛盾しないこと 形而上学的可能性:現実世界の本質的構造と両立すること 認識的可能性:現在の知識状態と矛盾しないこと
最も幅広い論理的可能性は、単に論理的矛盾を含まないことを意味します。「明日雪が降る」、「彼が天才である」、「この部屋が緑色である」などは、いずれも論理的に可能です。これらの命題は、内容的には全く異なりますが、いずれも「pかつ非p」のような明白な論理矛盾を含まないため、論理的には可能です。
概念的可能性は、私たちが使用する概念体系や定義と矛盾しないことを意味します。たとえば、新しい幾何学体系の構築や、新しい数学的定理の発見は概念的に可能です。これに対して、「結婚した独身男性」のような概念的矛盾は、「独身」という概念の定義に反するため、概念的には不可能です。
形而上学的可能性は、現実世界の本質的構造や自然法則と両立することを意味します。「時速100kmで走る」ことは現在の交通機関や自動車の性能を考えると形而上学的に十分可能ですが、「光速を超える」ことは現在の物理学の理解では形而上学的に不可能とされています。しかし、新しい物理理論の発展によっては、この判断が変わる可能性もあります。
認識的可能性は、私たちの現在の知識状態や情報と矛盾しないことを意味します。「彼は既に到着している」という命題は、私が直接確認していなくても認識的には可能です。同様に「この薬が効く」ことも、まだ臨床試験で確認していない段階では認識的に可能と判断できます。
様相論理の記法——精密な分析のための道具¶
これらの精密な階層区別を実際に利用するために、様相論理では特別な記法を使用します。論理学が特有の記法を用いる理由は、日常言語の曖昧性や文脈依存を避け、厳密で一意的な表現を可能にするためです。
記法の導入について
ここで紹介する記法は、本書の後の章(第3章以降)で詳しく学習する内容の先取りです。ここでは、様相論理の表現力を直感的に理解するための簡潔な紹介に留めます。
様相論理の最も基本的な記法は、真理の「様相(mode)」、つまり命題が真である「仕方」を表現する二つの演算子です:
| 概念 | 自然言語の表現 | 記号 | 読み方 | 基本的な意味 |
|---|---|---|---|---|
| 必然性 | 必ず〜、必然的に〜 | \(\Box\) | ボックス | どのような状況でも真 |
| 可能性 | 〜かもしれない、可能的に〜 | \(\Diamond\) | ダイヤモンド | ある状況で真でありうる |
これらの記号を使用して、前節で説明した階層構造を具体的に表現できます:
論理的必然性の例:\(\Box(p \rightarrow p)\)(「ボックス(p ならば p)」と読み、「必然的に、pならばp」を意味します)
概念的必然性の例:\(\Box(独身男性 \rightarrow 未婚)\)(「必然的に、独身男性ならば未婚」)
認識的可能性の例:\(\Diamond(明日雨)\)(「ダイヤモンド(明日雨)」と読み、「可能的に明日雨が降る」)
このように、様相論理の記法によって、日常言語では曖昧になりがちな必然性と可能性の種類や強さを、厳密かつ体系的に表現できるようになります。
階層間の対応関係と様相論理の分析力¶
これらの必然性と可能性の階層は、互いに密接な関係を持っています。一般的に、より強い必然性はより制限された可能性と対応します。たとえば、論理的に必然なことは、あらゆるレベルで可能ですが、認識的に必然なことは認識的には可能であっても、形而上学的には不可能かもしれません。
この精密な階層理解により、様相論理は人間の認知、推論、意思決定の微細な構造を分析する強力な道具となります。各階層は異なる哲学的・科学的問題に対応し、様相論理の表現力を段階的に拡張していきます。特に心理学研究では、これらの精密な区別により認知過程や信念形成のメカニズムをより正確に分析できるのです。
1.1.4 認識論理の基本概念と心理学応用の展望¶
様相論理が科学的認識論や心理学にもたらす最も重要な貢献の一つは、知識と信念の明確な区別です。この区別は、人間の認識過程を理解する上で根本的な重要性を持ちます。
知識と信念の本質的違い¶
日常的には「知る」と「信じる」は混同されがちですが、認識論では明確に区別されます。この区別を理解するために、まず具体的な例から考えてみましょう。
知識と信念の対比
知識の例: - 「太郎は、2 + 2 = 4であることを知っている」 - 「花子は、パリがフランスの首都であることを知っている」 - 「科学者は、地球が太陽の周りを回ることを知っている」
信念の例: - 「太郎は、明日晴れると信じている」(実際は雨かもしれない) - 「花子は、友人が約束を守ると信じている」(裏切られる可能性がある) - 「古代の人々は、地球が平らだと信じていた」(実際は球形)
これらの例から分かるように、知識には真理性の要求があります。つまり、誰かが何かを「知っている」と言える場合、その内容は必然的に真でなければなりません。一方、信念には必ずしも真理性は要求されません。誤った信念も論理的に可能であり、実際に存在します。
認識論理の記法——知識と信念の形式表現¶
知識と信念の区別を厳密に表現するために、認識論理(Epistemic Logic)では特別な記法を使用します。
記法の先取りについて
ここで紹介する認識論理の記法は、本書の第4章以降で詳しく学習する内容の先取りです。ここでは、認識論理の基本的な考え方を直感的に理解するための簡潔な紹介に留めます。
認識論理の基本記法は以下の通りです:
| 概念 | 記法 | 読み方 | 意味 | 例 |
|---|---|---|---|---|
| 知識 | \(K_s p\) | ケーエス p | エージェントsがpを知っている | \(K_s\)(地球は球体) |
| 信念 | \(B_s p\) | ビーエス p | エージェントsがpを信じている | \(B_s\)(明日晴れ) |
ここで、\(s\)、\(t\)などの文字はエージェント(認識主体)を表します。たとえば: - \(s\) = scientist(科学者) - \(c\) = community(科学共同体) - \(a\), \(b\) = 個人のエージェント
形式的定義と論理的性質¶
定義1.1.6 —— 知識と信念の論理的区別
知識(Knowledge):真理性の要求を伴う認識状態
- 記法:\(K_s p\)(「エージェントsがpを知っている」)
- 公理:\(K_s p \rightarrow p\)(知識の真理性)
- 意味:「sがpを知っているならば、pは真でなければならない」
信念(Belief):真理性の要求を伴わない認識状態
- 記法:\(B_s p\)(「エージェントsはpを信じている」)
- 特徴:\(B_s p\)が真でも、\(p\)自体は偽である可能性がある(誤信念の許容)
知識の最も重要な論理的性質は、\(K_s p \rightarrow p\)という公理です。これは「もしエージェントsがpを知っているならば、pは真でなければならない」ということを意味します。これは知識の定義的性質であり、この条件を満たさないものは知識とは呼べません。
対照的に、信念にはこのような制約はありません。\(B_s p\)(「sはpを信じている」)が真であっても、p自体は偽である可能性があります。これが「誤った信念」の存在を説明します。歴史を振り返れば、人類は多くの誤った信念を持ってきました。地球が宇宙の中心であるという天動説も、かつては広く信じられていた誤信念の例です。
科学的探究における応用¶
この区別は科学哲学において重要な役割を果たします。科学的探究のプロセスは、しばしば信念から知識への移行として理解できます。
理論の受容と発展について考えてみましょう。科学者が新しい理論Tを提案する場合、最初はこれは\(B_s T\)(「科学者は理論Tを信じている」)として表現されます。しかし、これは\(K_s T\)(「科学者は理論Tを知っている」)とは異なります。なぜなら、科学理論は将来の発見によって修正される可能性があるからです。
仮説の検証プロセスも、この枠組みで理解できます。仮説Hについて、「現在の証拠の下ではHが支持される」という状態は\(B_c H\)(「科学共同体はHを信じている」)として理解できます。しかし、これが知識\(K_c H\)に昇格するには、より厳格な条件が必要です。反復可能な実験、独立した検証、理論的整合性などが確認されて初めて、信念は知識へと変わります。
心理学への応用分野概観¶
ここで、様相論理が心理学の様々な分野でどのように応用される可能性があるかを簡潔に展望しましょう。
認知心理学では、知識と信念の区別は心の理論(Theory of Mind)の発達研究に直接関連します。子どもが他者の心的状態を理解する能力は、他者の知識と信念を区別できることと密接に関わっています。またメタ認知の研究では、「自分の知識についての知識」という二次的認識の発達が重要な研究テーマとなります。
臨床心理学では、うつ病の認知理論において否定的な自動思考と歪んだ信念体系が症状の中核とされます。認知行動療法の過程は、不適応的信念から適応的信念への変化として理解でき、様相論理はこのプロセスの形式的分析を可能にします。
発達心理学では、認知発達の段階を認識能力の質的変化として捉え、愛着理論では内的作業モデルを信念体系として表現することで、発達過程の論理的構造を明らかにできます。
社会心理学では、集団知識と共有信念の分析、ステレオタイプと偏見の形成過程の理解に、複数エージェントの認識状態の相互作用を扱う認識論理が有用です。
詳細な分析は応用編で
これらの心理学的応用の詳細な形式化と分析は、本書の応用編で体系的に扱います。基礎編では、これらの応用を可能にする理論的基盤の構築に集中します。
まとめ¶
この節では、様相論理の動機と基本的な直観について学習しました。重要なポイントを振り返ってみましょう:
必然性と可能性の本質的重要性を確認しました。日常的な直観から科学的探究まで、我々は絶えず「必然的である」「可能である」という概念を使用しています。これらは単なる修辞ではなく、知識と推論の根本的構造に関わる重要な概念です。
従来の論理学の限界を理解し、なぜ新しい論理体系が必要かを学びました。単純な真偽の二値では表現できない、真理の様相(mode)を扱うために、様相論理が開発されました。
必然性と可能性の階層構造を通じて、論理的・概念的・形而上学的・認識的レベルの違いを理解しました。この階層構造は、様相論理の異なる体系や解釈と対応し、特に心理学研究において重要な意味を持ちます。
知識と信念の区別は、認識論の根本問題であり、様相論理はこれを厳密に扱うための形式的枠組みを提供します。この区別は、科学的探究から日常的な意思決定まで、幅広い実践的意味を持ちます。
次節への展望¶
次の第2節「命題論理の復習」では、様相論理の基礎となる命題論理の構文と意味論を確実に理解します。論理結合子、真理表、推論規則などの基本概念を習得することで、第3節以降の様相論理学習の土台を固めます。
参考文献ガイド¶
本節で扱った内容をさらに深く学習するための文献を、学習段階と分野別に整理しました。
1. 論理学入門(様相論理の前提知識)¶
戸田山和久(2000)『論理学をつくる』名古屋大学出版会 - 論理学の構築過程を共有しながら学ぶ入門書。様相論理の基礎となる命題論理を確実に習得できる。
野矢茂樹(1994)『論理学』東京大学出版会 - 対話形式で進む現代論理学への入門書。文科系学生にも親しみやすい。
野矢茂樹(2020)『まったくゼロからの論理学』岩波書店 - より平易な入門書。様相論理に入る前の準備学習に最適。
2. 様相論理入門¶
三浦俊彦(2016)『改訂版 可能世界の哲学——「存在」と「自己」を考える』二見文庫 - 可能世界論を用いた様相論理の「一番易しい日本語の説明」。哲学的な視点から様相論理の直観を確実に理解できる。
小野寛晰(1994)『情報科学における論理』日本評論社 - クリプキ意味論の具体的理解に優れた教科書。丁寧な説明が特徴。
鹿島亮(2022)『コンピュータサイエンスにおける様相論理』森北出版 - 様相論理Kから応用まで、数学的基礎を厳密かつ分かりやすく解説。
3. 発展的学習¶
野上志学(2020)『デイヴィッド・ルイスの哲学——なぜ世界は複数存在するのか』青土社 - 様相実在論の革命的入門書。可能世界理論と日常概念(後悔、フィクション等)の関係を丁寧に解説。
菊池誠(編)(2008)『数学における証明と真理——様相論理と数学基礎論』共立出版 - 通称「様相論理の黒い本」。第1部は本格的な様相論理の教科書として読める。
飯田隆(2022)『言語哲学大全I——論理と言語(増補改訂版)』勁草書房 - フレーゲとラッセルを中心とした現代論理学の基礎。様相論理の哲学的背景の理解に有益。
4. 古典的原典(邦訳含む)¶
ヒンティッカ, J. (1975)『認識と信念——認識と信念の論理序説』(永井成男・内田種臣・訳)紀伊國屋書店 - Hintikka (1962) Knowledge and beliefの邦訳。認識論理の創始的著作。知識と信念の様相論理的分析の出発点となった歴史的名著。
クリプキ, S. A. (1985)『名指しと必然性——様相の形而上学と心身問題』(八木沢敬・野家啓一・訳)産業図書 - Kripke (1980) Naming and necessityの邦訳。必然性と可能性の形而上学的基礎を論じた現代哲学の古典。
ルイス, D. K. (2007)『反事実的条件法』(吉満昭宏・訳)勁草書房 - Lewis (1973) Counterfactualsの邦訳。可能世界意味論を用いた反事実的条件文の分析。ルイスの様相実在論への出発点となった重要著作。
ルイス, D. K. (2021)『コンヴェンション——哲学的研究』(瀧澤弘和・訳)勁草書房 - Lewis Convention, 1969の邦訳。ルイスの処女作。言語の慣習理論を通じて可能世界の哲学的基礎を探る。
クーン, T. S. (2023)『科学革命の構造』(青木薫・訳)みすず書房 - Kuhn (1962) The structure of scientific revolutionsの新訳。パラダイム概念で有名な科学哲学の古典。イアン・ハッキングによる解説。
5. 心理学・認知科学への橋渡し¶
子安増生 (1999)『心の理論——心を読む心の科学』岩波科学ライブラリー - 心の理論(Theory of Mind)の発達研究の基本文献。認識論理の心理学的応用の基礎。
信原幸弘 (2017)『心の哲学——新時代の心の科学をめぐる哲学の問い』新曜社 - 心の哲学の主要概念を網羅的に解説。知識と信念の哲学的基礎の理解に有用。
サール, J. R. (2018)『MiND——心の哲学』(山本貴光・吉川浩満・訳)ちくま学芸文庫 - Searle (2004) MiNDの邦訳。意識と知識の関係について哲学的視点を提供。
学習の進め方¶
- 初学者:戸田山 (2000) または野矢 (1994) から開始
- 様相論理入門:三浦 (2016) で哲学的直観を掴んでから、小野 (1994) または鹿島 (2022) で技術的基礎を固める
- 哲学的理解:クリプキ (1985) やルイス (2007) で様相論理の哲学的意義を深める
- 心理学応用準備:子安 (1999) と信原 (2017) で認知科学との接続を理解